• 19
  • 10月

間接的に支援していた若者が自らいのちを絶ったという

連絡があった。なかなか定職に就けず、でも最近長い長いトンネルを抜け(引きこもりだった)やっと仕事に出だしたと聞いていたのでほっとしていたのである。

なのに?なぜ?また、その仕事が続かなく・・・

「定職につけない自分が死ぬことが親孝行だと思った」との文章が残っていたらしく・・・

なんともやるせないではないか!!「未来は青年のもの」だったはず!

またもう一人の青年がメールをくれた、岡山を離れ仕事を転々として病気になって岡山に帰ってきているとか・・・・「おばちゃんのブログを時々見ていて、おばちゃんもがんばっていると、自分も頑張っていた」と泣かせるメール。

でも病気になるまで頑張らなくても・・・・・

定職につかなくても、自分らしく生き、認め合えることができないのか?

今、デンマークの福祉の本を読んでいるが、

共生の社会が根底にあり、国家は家族、だから、一人一人の可能性を国として保障するという政治理念が隅々に生きている。

消費税25%でも、大学まで無料で教育が保障される、そして専門職などの資格も無償でとれる。貧富の差のない共生社会。

日本共産党が目指している社会もある意味共生の社会。一人の幸せはみんなの幸せ、

少しでも近づくようにまずは選挙で勝つことですね!

我が家も末っ子(19歳)がやんちゃで・・・・今無職の身・・・

今のうちに、いろんなこと経験したいと平和運動などに没頭しているが

やはり、家では普通の「おかん」ですから

「ちゃらちゃらせずに・・・・ちゃんとしろ!!」なんてついつい言ってしまいます。

知らず知らず追い込んでいるのかもしれません!反省・・・・

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コメント2通

  1. 野良通信 さんからのコメント:

    あてつけの自死、思いやりの帰結としての自死、自死には理由がいるのですね。自然死、病死が、「力及ばず」で済むのと違って。人生の節目の決断は否可逆ですが、少なくとも、あの決断は拙かったと、いきていれば、思い返すことができる。それができないのが「自死」のやりきれないところでしょうか。役所の統計は自死、3万人強と集計します。その数倍の「やりきれないキモチ」を思えば、自死の呪縛が、社会の底に「通奏低音」として流れているのではないでしょうか。
    我が身近にもパラサイト化しつつある若者が居ります。「カネにならなくても熱中」出来る面白い事を見つけて、やっていれば、いずれ親離れもするだろう。と、つれあいに話たりします。「金にならないことに熱中」のくだりで、つれあいの視線が私に来るのは何故なんだろう。

  2. 竹永みつえ さんからのコメント:

    野良通信さん

      いつもありがとうございます。
       最後のところ笑ってしまいました!!

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